ねいちゃのブログ

オタクな僕が娘を育てたら…的なブログです。

供養(自分の気持ちと明日のために)

覚悟は決めていたけれど、やっぱり、現実そうなると

哀しみが全てを覆ってしまいます。

哀しみと過去の思い出を振り返るだけのブログになります。

 

久々の投稿なのに、こんな内容でごめんなさい。

 

ナイスネイチャが2023/5/30にその生涯を閉じました。

僕にとっては、青春時代を代表する思い出であり、

もう詰んでしまったな・・・と思っていた自分を励まして

まだ頑張ろうという気持ちにさせてくれた、

それこそ命の恩人のような馬でした。

 

競馬に出会ったのはいつだったのか、自分でももう思い出せません。

父親がギャンブルをまったくやらない人だったので、

家族で競馬を見た記憶はありません。

 

シンボリルドルフやダイナガリバーの名前を聞いたような

競馬にはまった後に、いろいろ調べて覚えただけのような

もう競馬との出会いはすでに曖昧になっちゃってます。

 

一番最初に衝撃というか、はまるきっかけをくれたのは

アイネスフウジンのダービー制覇でした。

競走馬の走る姿のカッコよさと、レースを制覇した騎手を

称える観客のコールが今でも思い出せます。(TV観戦でしたが)

 

そして、その後出会ったのが(TV観戦ですが)ナイスネイチャでした。

翌年の若駒S。

トウカイテイオーという凄い馬が走るというので観戦しました。

レースはトウカイテイオーの勝利に終わるのですが、

何故か自分の目に留まったのは、ここでも3着だったナイスネイチャでした。

競馬だけでなく、スポーツでも将棋界でもなんでも

傑出した覇者のような人には、同じくらいのライバルが現れてほしいと

思う性格の自分だったからなのか、名前をはっきりと覚えました。

 

ただ、時代はネットなんか無かった時代。

次にナイスネイチャの出走に気づいたのは、

京都新聞杯(当時は菊花賞のトライアル)でした。

春はトウカイテイオーの話題で占められ、

夏のGI無い時期に競馬を観る環境にはなかったんです・・・。

 

馬柱に名前を見つけ、若駒Sの後は休養していたことを10月にようやく知ったり

夏の小倉で3連勝していたことを知ったり、

ただ驚きと、3連勝して秋のクラシックには間に合ったんだという嬉しさと

自分の見る目に間違いなかったなという自惚れが交錯しました。

 

その後の活躍と戦績は多くの人が知るところでしょう。

でも、当時の情報源の少ない時代には、

一年目の有馬の後、春は出走できない理由もわからず、

復帰初戦の毎日王冠で、骨膜炎でまた休んでいたんだと知るような

そんな情報不足な時代でした。

 

半年明けでちょっと短いと思う1,800mの毎日王冠で3着、

むしろ、クラシック最後の菊花賞が長いのに無理して出たのかな?と思ったり、

その後のマイルCS→有馬記念のローテーションでどちらも3着で

2,000mくらいの中距離で来年はGI勝利だ!って興奮したりしてました。

 

その後も大きなレースを出続けたナイスネイチャ。

(最終的には、重賞連続出走:34戦になりました)

当時はGIIだった大阪杯で2着になったりしたものの天皇賞(春)に出てこず、

骨折休養を知ったり、復帰初戦の毎日王冠で2年連続の3着になったり

年末に有馬記念を3年連続で3着になったりしました。

 

このころ、日本はバブルが弾けた影響が深刻化していた頃でした。

うちも例に洩れず、生活が苦しい頃でした。

頑張っても報われない、現在も未来も真っ暗闇な時期でした。

 

今だから言えるけれど、正直このまま生きていても・・・と

頭によぎったことが何度もありました。

 

そんなとき、ふと見た大阪杯。

競馬にはまるきっかけをくれたナイスネイチャが

3年連続有馬記念3着でじり脚の象徴みたいなコメントも

されていたナイスネイチャが馬郡の中をすりぬけて

2着に突っ込んできたのを観ました。

ナイスネイチャの出ているレースは、いつもナイスネイチャがどこを走っているか

先頭や人気馬は気にしないで見ていました。

4角まで後方待機、さすがにコースもないし抜けてこれないと思ったところを、

スルスル抜けて最後、馬郡の中では先頭に躍り出てきたんです。

※なお、馬群より3馬身前に勝ち馬ネーハイシーザーがいて2着です。

 

これを見て、諦めたらダメなんだと言われた気持ちになりました。

 

そこからは久々の長距離3,000mの天皇賞(春)、宝塚記念をともに4着で

苦しい状況の中でもナイスネイチャの出るレースは必ず見てきて、

そして迎えたのが、7/10。

中京競馬場にナイスネイチャがやってきてくれました。

 

今とは違って2,000mのGIIだった高松宮杯。

何故か買ったスポーツ新聞で出走を知りました。

遠い競馬場へ行けるような生活ではなかった自分は、

ナイスネイチャを目の前で見れるのはこのレースが最初で最後だと、

ナイスネイチャの走りを観れればもう思い残すことはない・・・

くらいの気持ちで中京競馬場へ向かいました。

 

結果は、ご存じの通り、ナイスネイチャの2年半ぶりの勝利で

中京競馬場中の人がみんなナイスネイチャの勝利を祝福した

あの光景を目の当たりにしました。

また、これを見て、本当に心の底から、諦めたらダメなんだと、

最後まで走り続けるからこそ結果が出るんだと思えるようになりました。

歓声とナイスネイチャの姿に、ずっと涙が止まりませんでした。

 

それから月日が流れ、有馬記念の馬柱からナイスネイチャが消え、

種牡馬になれて、無事北海道に戻っているという情報だけは

掴むことができました。

 

ですが、今と違って当時は父内国産馬はGI取れないと言われた時代。

ナイスネイチャが引退するころは、ブライアンズタイム、サンデーサイレンス

といったGI勝ち馬を大量に輩出する外国産種牡馬がおり、

GI勝って種牡馬になった馬ですら、数年で失格の烙印を押され

消息不明になる時代でした。

正直不安しかありませんでした。

 

でも、残念なことにというか、このころもまだ生きるのに必死で

ナイスネイチャのことを考えられない、次第に忘れて行っていた時期でした。

 

そしてナイスネイチャが引退して4年が経ちました。

なんとかサラリーマンになって生活は立ち直り、

普通な生活が送れるようになった頃、

ナイスネイチャの子が競走馬としてデビューする頃じゃないか?と友人に言われ、

どうやって見つけたのか、名古屋競馬場にパワーベルという馬名で一頭、

ナイスネイチャの子が所属することを見つけました。

 

まだインターネットでの情報発信もほとんどなく、

名古屋競馬場のサービスで、FAXでレース登録馬の受信をしていた記憶があります。

そしてデビューから4年ほど、ほぼ欠かさずレースを応援に行っていました。

 

その間にも、南関のナイスネイチャ産駒ピットインが重賞に出ると

聞いて船橋競馬場へ行ったり、

中京競馬場に来ると聞いてセイントネイチャーの応援に行ったり

北海道へ一度、ナイスネイチャに会いに行ったりもしました。

 

そんな幸せな時期も突然終わります。

大活躍とまでいかなかったナイスネイチャの子供たちが競馬場を去り、

ナイスネイチャも種牡馬引退となりました。

 

好きだった馬を引退した後まで追いかけてはいけないといわれていた時代、

※個人的に誰かにそう言われただけかもしれません・・・。

ナイスネイチャのおかげで今の自分があるという気持ちだけで

何もできないことが哀しく過ぎていきました。

 

ところが、そんなある日、「イグレット軽種馬フォスターペアレントの会」

という存在を知ります。

どこで知ったのか誰かから教えてもらったのか

もうそのあたりの経緯は覚えていませんが、

そこでナイスネイチャが余生を過ごすための支援をしているということを知ります。

この「イグレット軽種馬フォスターペアレントの会」が現在の、

NPO法人「引退馬協会」です。

 

もちろん、すぐにナイスネイチャのフォスターペアレントになりました。

「引退馬協会」の関係者の方には、本当に長い間ありがとうございました。

ここまで生きれるだけ生きられたのは、「引退馬協会」のおかげだと思っています。

ありがとうございました。

 

その後、ひょんなことから北海道に年の半分くらい暮らす生活になり、

とはいえ、行く時期は冬であることも多く、道南からは離れた北東部側で

夏場に行ったときにだけ、ナイスネイチャに会いに浦河渡辺牧場さんに

伺ってナイスネイチャと会ってきました。

 

そして、初めてナイスネイチャを見かけてから32年。

ついに、その日が来てしまいました。

 

Twitterで見るナイスネイチャの健康状態の情報、

引退馬協会さんから送られてくる連絡の「今のうちに」の言葉、

覚悟を決めなければと思いながらも、

受け入れられない日々となりました。

 

僕も歳を取り、自由に自分の時間を使えなくなってきたこともあり

生きているうちにもう一度会いに行くことはかないませんでした。

 

最初の速報を受け取ったときから、どこかで今までとは違う状況だと

理解はしていたのか、片頭痛や肩に錘が乗っているような体調不良が

続いていました。

亡くなってから10日ほど経ち、今はその体調不良も消えました。

 

きっと、こんなところで立ち止まっているような姿を

見せた覚えはないとナイスネイチャも怒っているのか

僕の体調不良も取り除いてくれたのでしょうか。

 

ナイスネイチャがくれたこの命、これからも大事に

そしてこれから先も関わってくれた人達のために

できることを精いっぱいやる人生を歩もうと思います。

 

この投稿を供養に、また明日から元気に頑張っていきます。

 

もし、ここまで読んでくれた方がいましたら、

本当にありがとうございます。

ただの気持ちの踏ん切りのための駄文、申し訳ございませんでした。